安達峰一郎は、1869(明治2)年6月、山形市近郊の山辺町に生れた。明治初期は未曾有の激動期で、15歳で上京、司法省法学校を経て、1892(明治25)年7月に東京帝国大学法学部仏法科を卒業し、9月に外務省に入省した。最初の任地イタリアからフランスに移り、1903(明治36)年、10年ぶりに帰国した安達は、日露戦争に直面した。戦争終結を決める日露講和のポーツマス会議で、安達の持つ国際法の知識と交渉時採用のフランス語の卓越した能力を買われ、小村寿太郎全権の随員として活躍した。
1908(明治41)年に再び渡仏し、臨時代理大使となって日仏通商航海条約をまとめ上げた安達峰一郎は、1913(大正2)年1月には駐メキシコ公使に任ぜられた。当時のメキシコは、革命動乱の真っ只中にあり、安達公使は1915(大正4)年9月に帰国し、東京で公使館業務を執務することになった。欧州では前年6月に第1次世界大戦が勃発していた。
1917(大正6)年5月、駐ベルギー公使に任ぜられ、シベリア鉄道を利用し、戦乱の中、フランスのル・アーブルの臨時日本公使館に到着した。駐ベルギー公使・大使として大戦後のヴェルサイユ講和条約、1920(大正9)年1月新たに誕生した国際連盟の諸会議で、見事な活躍をすることとなった。
国際連盟で常設国際司法裁判所の創設が議題に上ったとき、国際法の学識者として知られた安達峰一郎は、常設国際司法裁判所規程起草委員会の委員に任命された。裁判官の選任、応訴義務の問題について安達が論陣を展開し、基盤が確立されていった。また、ジュネーヴで開催の国際連盟第2回総会(1921年)から第10回総会(1929年)には、日本代表として出席し、1929(昭和4)年の理事会(マドリード)では議長を務めた。
1930(昭和5)年駐フランス大使として国際連盟で活躍する安達峰一郎は、常設国際司法裁判所の第2期目(1931-39)の裁判官に立候補した。結果は最高点で当選し、1931(昭和6)年1月に常設国際司法裁判所長(任期3年)に選出された。安達峰一郎が裁判所長に就任した年の9月に、満州事変が勃発した。安達の憂慮にもかかわらず、戦火は拡大し、日本は1933(昭和8)年に国際連盟脱退を通告した。
同年いっぱいで裁判所長を退いた安達は翌1934(昭和9)年夏、病に倒れ、この年の12月、アムステルダムで65歳の生涯を終えた。オランダ国はその死を悼み、特に国葬の礼をとるべき旨を申し出た。1935(昭和10)年1月3日、葬儀はオランダ国と常設国際司法裁判所の合同葬としてハーグの平和宮で執り行われた。
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